佛性論(21)巻第一      天親菩薩造 真諦訳

       破執分第二中破外道品第二

 

 

 若し多くの人共に聞かば、即ち因果一体を得ざるを知るなり。

 汝、多くの果有るは即ち多くの因より随い而も取りて生ずること、人の田中に種を散じるが如くに、人と田これ一にして而も種子衆多なれば生ずる芽等、亦少なからずして、亦一人の鼓を打つに、鼓の声衆多なるが如くが故に人間も亦多しと説くは、この義然らず。何を以っての故に。

 本取るべからざるが故に。

本已に自性有らば何ぞ現に見ると称え言うを得るや。鼓を打ち終るに因り、後に方に聞くを得るなり。

 汝、声の自性本より有るも、八種の不了に由るが故に未だ得ざるなりと説くは、この義然らず。何を以っての故に。

 近し遠し等と雖も亦聞くを得ざるが故に、本より自性無きを知るなり。

 汝一声転じて多声を作ると説くは、この義然らず。何を以っての故に。

 一と多の数相違するが故に倒の義應に成ずベければ、汝の義は本より壊れるべし。

 

 一と多と相違するに、汝の立てる義には声に三種有り。

一つ、ただ果と相違す。二つ、因と果と並んで相違す。三つ、ただ因と相違す。

 初刹那の声はただ第二刹那の声と相違し、最後の刹那の声はただ因と相違して、更に別の果有ること無し。中間の無数の声は前後相い望むに無量の因果有らば、自ら倶に相違すれば、この義を以っての故に、一声無量の声を生ずること、この義あるべからざるなり。何を以っての故に。

 一時倶に聞くが故に。

若し前後に多くの声を生ずれば、即ち應に前後に聞くべくも、前後に聞かざるは一時に倶に聞くが故に、一の声の無量の声を生ずるに非ざることを知ればなり。