佛性論(22)巻第一      天親菩薩造 真諦訳

         破執分第二中破外道品第二

 

 

 また次に倒の義の成ずるを得るとは、

汝、一の能く多を生ずると謂わば、我も亦多の能く一を生ずると言うなり。汝もし多の能く一を生ずるを信ぜざれば、我も亦一の能く多を生ずるを信ぜざるなり。

 

 また次ぎに汝の義の本壊れるが故にとは、

 汝の義に云わく、物、得、事等の三種有るは唯だ物の中に於いて得有り、事有りを説くべきも、得の中には更にまた得を立たざれば、汝今聲の得の中に数量の得あるを分別すれば、あに自ら本の執と背かざらんや。

 汝この数量はただ名句味に依りて聲には依らざること、譬えば劫の来りて屋を焼くが如くは実は是れ火の焼くがごときにて、火と劫の相応するを以っての故に、これ劫の焼くには非ず、火に由り劫に依るが故にて、故に劫の焼くと言えば数量も亦爾れば実にこれ名句味の家得にて、此の名句味、聲と相応ずるが故に数量の得を聲に依りて説くが故に、我が義の本を失わずと説くは、この義然らず。何を以っての故に。

 名句味のみ根を得る所なるが故に。

 此の名句味、聲と為るや聲とならざるや。若しこれ聲ならば應に得有るべからずこと、諸得は無體なるが故に。

 若し聲にあらざれば、聲を聞くその時即ち應に得るべからずして、名句味と一時に得れば、如何がまた名句味等に数量有りて聲無しと言うや。

 故に知る、汝の義自ら本に背かんことを。